毒親育ち⑬

マイライフ

祖父母の家から引っ越しした後に住んだマンションは3DKでした。今まで自分だけの部屋をもった事がなかったのでとても嬉しかった事を覚えています。ちなみに飼っていたニャンコも連れてきました。

3人と1匹で住むには十分な広さがありましたが、なぜかお風呂だけが狭かったので少しびっくりしましたが。

マンションは3人が通学と通勤がしやすい場所を選びました。あまり土地勘がなかったので深く考えずに決めましたが、土地勘がある今はあまり住みたくない地域です。

実際に、私はバイト帰りに2度チカンにあいましたし、その場所を知っている友達からは十分に気を付けるように言われました。

バイトをしないと生きていけいない状況なので、22時以降に駅からマンションまで帰らなければいけないのですが、明るい道を抜けた瞬間から自転車でダッシュで帰っていました。毎日無事家に着けた時はホッとした事を覚えています。

日々の生活は、朝早くから授業があるので8時前くらいには家を出て、夕方まで学校でそこからほんの少し家に帰りバイトへ行き、22時半までバイトしてそこから帰るという生活をしていました。

家に着くのはいつも23時半くらいだったでしょうか。チカンにあってからは早く上がらせてもらっていたので、22時台には家につけていたと思います。

学生の頃から家に2万お金を入れていたので、毎日のようにバイトに行っても、少しずつ貯金していた事もありますが、定期代や携帯代や教科書代やご飯代その他必要な物は全て自分で買わないといけなかったのでバイト代はあまり残りませんでした。当然友達と遊ぶ時間もお金もあまりありませんでした。

こんなに頑張っているのにお金が残らない事に涙した事も沢山ありました。オシャレをしたくても買えないので、バーゲンの時に60%や70%に値下げされた服を買う事が基本でした。

あと自分は家に2万しか入れていないから申し訳ないという思いがあったので、学生の間は家の家事もできるだけ私がしていました。

けれどそんな中でも初めて自由に暮らす事が出来ている楽しさもあり、(昔は母からの束縛のようなものが辛かった)皆で助け合って生活を送れていました。

そんな生活を半年くらい送っていたある日、また事件がおきました。

なんと母が無職になってしまったのです。 運よく大手運送業の事務員として採用されていてお給料もそこそこもらえていて、社会人経験もなくずっと専業主婦をしていた母にとってはとても条件の良い職場だったのですが、そこの営業所がなくなってしまう事になったのです。

他の営業所で雇ってもらう事は出来ず、そこの営業所で働いていた人たちは皆それぞれ解散という形になってしまったようです。

その頃から母の運もさらにどん底に落ちて行ったように思います。母は毎日ふさぎ込むように布団で寝ている事が多くなりました。

たまに学校帰りに求人誌を取って帰ってきてと頼まれる事があり、時間がたくさんあるのだから自分で取りに行けと言えば怒鳴られますし(この頃はまだまだ言う事を聞くように洗脳されていた)、ついには私の奨学金のお金を分けろと言ってきました。(私は毎月奨学金を8万円借りていて、それを授業料に当てていました。最初の半年間の授業料は祖父母からの援助により払い終えていたので、最後の半年間のお金は自由に使う事ができる状態でした。)

私はもう就職活動をしなければいけない時期だったで、この奨学金でバイトをセーブして活動に専念しようと思っていた矢先だったのでそれは無理だと伝えると、怒鳴られるのです。まだまだ洗脳の解けていない時期なので、怒られると従わざるをえませんでした。仕方なしに毎月半分の4万円を半年間母に渡していました。(奨学金の返済は当然私です。)

結局私はバイトをほんの少しだけセーブして就職活動をしていました。でも結局、この時間はバイトとかぶってしまう・・・と面接を受けたい会社を諦めた事も何度もありました。

もう就職浪人をしようと思っていたのですが、なんとか3月の初めに本当にギリギリ就職の内定をもらう事ができました。これは本当にラッキーでした。

母も母なりに仕事を探していて、見つかったと思ったらトラブルが起こりまた無職になり、次に決まったホテルの客室清掃の仕事でヘルニアを発症して無職になり、となかなか仕事が安定しませんでした。

4個目くらいの職場でやっと安定した仕事に就くことができました。

ここで本当によかった事は、姉が就職できていた事、私がアルバイトで自分で自分の生活費を稼ぐ事ができる年齢だった事だと思います。世の中にはまだまだ子供が小さいのにこの様な状況に陥ってしまう方もたくさんいると思います。母はまだマシな状態だったと思うのです。ご飯を作る必要もないですし、子供達は勝手にしていても生きていける年齢なのですから。

母は家事だってほぼしていませんでしたし、生活用品だって私と姉で出し合って月に1.2度買い出しにいっていました。当然猫のご飯やトイレなどの世話だって私達でやっていました。母が頑張らなければいけないのは自分の家賃分と生活費を稼ぐ事だけだったのです。

母もすごく辛かったと思うのですが、私と姉もとても辛かったです。ですが母は自分だけが辛いと思っていたので、私達に当たってくる事がさらにしんどかったです。

私達は私達なりに母を大切に思っていました。姉も私もお誕生日には好きなものを買ってね、とお金を渡していましたし、誕生日ケーキを買ってきたりもしていました。

母は毎日飲み歩いていたので、メールで「ケーキ買ってきたから食べようー!」と送っても、「明日食べるからおいといて~」と連絡がくるのでおいておくと、全く食べず冷蔵庫に残っているのです。

社会人になってからはボーナスが出た時私はボーナス自体少なかったのでほんの気持ちでしたが、姉などは端数分を渡していたので結構な額でした。

こんなにしていても、嫌味を言ってきますし、あんたらは全然何もしてくれへん、と言ってきます。一度電球が切れていたのを誰も替えずにいた事があったのですが、すごい怒っていました。

私は、心の中であんたが今使ったシャンプーや歯ブラシや歯磨き粉は誰が買ったと思ってるんや!!!と怒っていました。こんなに理不尽な扱いを受けていても何されるか分からないので心の中でしか怒れません。

お金に余裕がないくせに毎日飲み歩くので、少しずつ貯金をしたら?と言っても、飲んでる代わりに他にお金使ってない、あんたらは服とか買うやろ?私はお酒に使ってるだけ。と言い返してきます。と言うか、私の方が全然お金使ってなかったです。学生の頃もお昼代は150円までと決めて、コンビニでできるだけ大きいパンを買って凌いでいましたし、少し余裕がある時はパン屋さんの一番安いドーナツを1個と他に好きなパンを買ってそれでも350円位です。350円でもお金を遣いすぎてしまったなー・・と思っていました。

ある日、母に税金の支払い通知が届きました。お金がないから貸してくれと言われましたが、私もないと言うと、また逆切れです。仕方なしに5万円貸しました。

ボーナス・誕生日などに渡したお金を貯金していたら払えるはずなのに、たびたびお金を貸してと言われてきました。25歳までで覚えている金額だけで60万近く渡しました。これはボーナス・誕生日のお金は含んでいません。

欲しい物も我慢して少しずつ貯めた貯金を、平気で貸せといってくるのです。貸せないといったら逆切れです。

こんな事もありました。成人式の時、着物など一式祖父母が用意してくれていました。美容室の予約は当然自分でしたのですが、母には着物一式を美容室まで持ってきてほしいとお願いしました。一応持ってきてくれたのですが、「なんで私が持ってこなあかんの」と、その言葉には、まだ親に頼るんかいな、みたいな意味が含まれているのです。

この母親は家でも買ってやらないと、やってもらったと思わないのでしょうか・・・。

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