毒親育ち②

マイライフ

うちの両親は毒親レベルでいうと中の中くらいでしょうか?

父は仕事第一!家庭を全く顧みる事はありませんでした。深夜の仕事でしたので、一緒にご飯を食べたのも20~30回位しかないんじゃ?そんなレベルです。

イベントやお誕生日を祝ってもらった事も記憶にありません。(おめでとう位言えるだろ!と思いますが)笑って会話したりと言う事すらほぼ記憶にありません。

しかし、家族に興味がないというだけで暴力はなく、一応高校卒業までは父のおかげで過ごす事ができました。

父はそれなりに稼ぎはあったのですが自分の好きなように過ごしていたので、父と母はいつもお金の事で喧嘩していましたし、私自身高校の時にバイト禁止の厳しい高校でしたが、時にはバイトを掛け持ちして自分のお小遣いを稼いでいました。

高校も公立でしたし、欲しい物を買ってもらったり、お金をかけてもらったという記憶はほぼありませんが、必要最低限の生活はおくれていたので、まぁそこは感謝しています。

 

母は自己中心的で母性が20%~30%位な人でした。子供の為に何かしてあげたい!と言う意識は低く、物心つく頃には朝ごはんなどでてきた事は基本ありませんでした。(部屋はキレイにしていたのと、夜ご飯はきちんと作ってくれていました。)夜更かしする母なので、ギリギリ起きていたり寝ていたりという感じでした。

いつ頃からだったか・・・?自分でパンを焼き準備して学校へ行っていた事を覚えています。

※中学生くらいの頃はお腹のグーグーと鳴る音がとても恥ずかしくて、授業どころではなかった時期があったのですが、『朝、食パン(一枚のみ)を食べているのになんでこんな鳴るのだろう・・・』と思っていたのですが、あの頃朝ごはん全然足りていなかったんだな、と大人になってから気づきました。

言う事を聞かないと、手で叩かれる事も足で蹴られる事も、時には布団叩きや掃除機の先で叩かれる事もしばしば、そして言葉の暴力もありました。

しかし、不思議な母なりのマイルールがあり、手を出すのは何歳までと決めていたようなので、小学校高学年くらいからあまり手をあげられた事はなかったです。引き続き言葉の暴力や精神的苦痛はずっとありましたが。

一度布団叩きの棒が木から堅い金属のようなものに変わった時、これで叩かれたら痛いだろうな・・・と恐怖を感じた記憶があります。普通は布団叩きが変わってもそんな事考えないですよね。

ちなみに、なぜ布団叩きで叩くのか?一度聞いた事があります。返ってきた答えは、「手で叩いたら私の手が痛くなるやろ」でした😭

ここから記憶を遡ってできるだけ時系列で書いていこうと思います 

まだ幼稚園にも通っていない4歳頃の事だと思います。

母と姉が、お友達のAちゃんがBちゃんのシールを取ったのか?そんな話をしていました。

それからほどなく、Aちゃんのお母さんがうちの玄関先にやってきて、「うちの子がBちゃんのシールを取ってしまったのか?」と聞きにきていました。

私は先ほどの母と姉の会話から、「Aちゃんシール取ってしまったーー!」と調子にのって伝えてしまったのです。

その後Aちゃんのお母さんが帰るや否や、母は烈火のごとく私を怒ってきました。

なんて失礼な事を言ったんだと。その怒りが怖すぎて大泣きする私。

当時私は団地に住んでいたのですが、母から違う棟に住んでいるAちゃんのうちまで行って謝ってこいと言われました。謝るまで家に入れないと。母は怒ると巻き舌になりオラオラ系になるので、本当に怖いのです。

嫌だ嫌だごめんなさいと泣き叫び謝っても許してはくれません。4歳の私は大泣きしながら、違う棟に住んでいる(少し離れている)Aちゃんちに行き、Aちゃんのお母さんに「さっきはごめんなさいーーーー」と大泣きのまま謝りました。

Aちゃんのお母さんはびっくりしていて、「大丈夫だよ、ありがとう」と言ってくれたように記憶しています。

そして家に帰り謝ってきた事を伝えると、ようやく家に入れてもらえたのです。

 

うちの母は我が子を所有物と思っていたので、私たち兄弟にはとてもひどい事を平気で言ってくるのですが、外面はまぁまぁよく、よそ様に迷惑をかける事にはうるさかったのです。

確かに私はAちゃんのお母さんに失礼な事を言ってしまったのですが、4歳の小さい子を離れた場所まで大泣きのまま謝りに行かせるほどの事なのか?今でもすごく疑問に思いますし、思い出すと悲しく泣きそうになります。

私なら子供に、『あんな風に言ってはいけないよ』と伝え、そしてなぜいけなかったのかを説明した上で一緒に謝りに行くと思います。

我が子を平気で傷つける母ですが、他人には気遣いできる不思議な人なのです。

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