ここで父の事についてです。
父も母と同様、すこし複雑な幼少期でした。
父方の親族とは小学校低学年くらいで全く関わらなくなったので詳しくは知りませんが、祖父母は父の幼少期に離婚して、高校生くらいの時に祖父が再婚し新しい継母がやってきました。
私が知っている祖母はこの再婚相手の人でした。父の下に妹が生まれていたので、私たちはそのお姉ちゃんによく遊んでもらっていた事を覚えています。
父は元々は4人兄弟でしたが(妹除く)、今交流は全くなく誰が生きているのか死んでいるのかも分からない状態です。祖父が亡くなってから実家は売却され、そのお金などは兄弟には分けてもらえず継母が全て持っていったようです。
継母は父達とはそんなに年は離れていませんでしたが、結構偉そうに指示していた事を覚えています。そんな家庭だったから父も両親の温かさや家庭に安らぎなど持っていなかったのでしょう。
母の元々の性格もありますが、父がきちんと家庭を大事にしていたら違った未来だったのでは?と思います。
母が再婚相手の事でこう言っていました。「ちゃんと家に帰ってきてくれるから嬉しいねん」と。
この言葉で父の人間性が見えたように思います。父はずっと営業をしていましたが、常にトップの成績を保っていたようです。ザ・仕事人間!で、本当に家庭を顧みない人でした。
父のいない家は当たり前で土日も仕事に出ていました。ご飯を一緒に食べる事すらとても珍しかったですし、笑い合いながら話した事あったでしょうか・・・どこかに連れて行ってもらった事も数えるほどですし、父が家にいると緊張していたのを覚えています。
全然お休みがないのにお墓詣りはかかさないので、お盆や年末年始のお休みでのおでかけはお墓参りの思い出しかありません。母はいつも家にいない父にここぞとばかりに車内で喧嘩するので、私と姉は後ろの席でよく声を潜めていた事を覚えています。
家族で揃った時は、基本夫婦喧嘩が始まるのでそれはそれは楽しくない思い出ばかりです。これも虐待の内の一つですよね。とても辛かったです。
母の気持ちも大人になればわかります。夫が家に帰ってこないのは辛いです。私も楽しい事、悲しい事、嬉しい事、主人に聞いてもらいます。子育ての事ならなおさらで、習い事の事、病気の時、子供関係での困った時、全て主人と相談して決めてきました。
病気系は特に心配で堪らなくなるので、そこを一緒に乗り越えてもらえるのは本当に有難いです。そういう部分で父と話し合いができないのは本当に辛かっただろうと思います。
昔母が、幼い私達を遊びに連れて行って、その帰り疲れたからホテルか旅館に泊まろうとした。けれど、断られたと。なぜなら、ホテルや旅館で心中してしまう母子がいるから。と教えてくれました。
これを聞いてなぜかとても悲しい気持ちになりました。
私も子育てをしていて本当に疲れる時があります。とても可愛くてたまらないですが、人間を1から育てていくという事は、誰かに協力してもらわないと無理な気がします。祖父母には一応助けてもらっていたのですが、近所に住んではいなかったので母は一人でこなしていたのでしょう。
確かに小さい頃の母はそこまでひどくはなかったように思います。(それでも世間一般の母よりは毒親でしたが) どんどん毒親度が増してしまったのは、家庭での寂しさみたいなものの影響が大きかっただろうと考えています。
母は父にずっと愛情があったみたいなのでとても辛かったと思います。けれどそんな気持ちもだんだんと薄れていき、私が成人を迎えたら離婚しようと考えていたみたいで準備にとりかかろうとしていた矢先、あの事件がおこりました。
これで母の怒りは最高潮になり、父を本気で恨むようになりました。
私は父に対しても母同様どうしようもない人だと思っていて、家族も顧みないくせに最後にとんでもない爆弾を爆発させ、子供の人生どう思ってるんだとこれまた怒りで私が爆発しそうになります。
私は聞いていませんが、姉は父の世話を少ししているので父と話す機会がちょくちょくあるのですが、昔の事を反省していて本当にごめんというと謝っていたそうです。
私にとったら父も母と同じくらい同罪であまり関わりたくない人なので、これから介護など必要になった場合どうしようか本気で悩んでいます。
親が必要な時期に全く関わろうとせず、すごく面倒くさそうに対応されていた事も覚えていますし、家族の誰かが困っている時に助けた事もないだろうし、逆にすごい迷惑をかけられた事しかない。
幼少期に沢山愛情を注いでくれている両親であったなら、貧乏な時期を過ごしても家がなくなっても、今でも両親を支えていただろうと思いますが、してくれる事は何もないのにこちらばかりするのは本当に腹立たしいです。