母は子供の容姿を平気でイジる人でした。
私は父に似て一重でした。物心ついた頃には、「ブサイク」や「将来整形代出してあげるからな~!」と言われていましたので、少し悲しいけれど慣れていました。人前でも平気で言うので、近所のおばちゃんが止めてくれる事もありました。
一度母が言っていました。「おばあちゃんが、父・母はブサイクではないのに、生まれてきた子供達(私と姉)はなんでブサイクなんやろ~って言われた事あるねん。ひどいやろ?」と。
「一番ひどいのはおまえじゃ~~!!!」とツッコミたくなりますが、ここも我慢です!
さらに私は小学校高学年の時に太っていたので、体形の事もよく言われました。以前にも書きましたが、「痩せろやデブ!!!」とキレられた事もあります。
母は、私の友達とかにも失礼な事を言う事があるので、それが一番ヒヤヒヤしました。自分の友達や知り合いに失礼な事を言うと怒るくせに、子供の友達の事は平気で言ってくるので本当に厄介な人間です。
母はとても被害者意識が高く自分が一番かわいい人なので、私たち子供がどう思われようとどうでもよかったのか、ちょくちょく古くからの同級生と電話をしている事があったのですが、電話の内容を聞くと(目の前で話すので勝手に聞こえてくる)私たち兄弟を何もしない子供達だと言っていたりもしていました。
けれど実際はお手伝いしていたと思います。今の時代では考えられませんが、小学校低学年の頃から自動販売機のタバコを買いに行かされていましたし、近くの酒屋さんにもビールを買いに行かせられました。
タバコの自動販売機なんかは、昔は小銭を入れる位置が高かったので、私は乗っていった自転車のサドルに立ち買った事もあります。タバコにビールを買っている所なんてお友達に見られたくないのですが、拒否権はありません。
キッチンでのお手伝いもしていましたし(けれど楽しい部分はさせてくれない)、小学校2年生の頃には一人で卵焼きを作れていました。一度油が火にうつってしまい大きな炎が上がった事があり、少しの間トラウマになりました。
お風呂の掃除は姉と交代ごうたいでしていましたし、食料の買い出しにもよく強制的に連れていかれていました。思春期の頃って友達に母親を見られるのが嫌な時期だったりしますよね。けれどそんな気遣いなんてしてもらえません。
掃除はあまり手伝いませんでしたが、母が掃除機をかけている時は基本機嫌が悪い気がしていたので、気を遣いながら終わるのを待っていました。
朝は基本起きないのでいつからか自分で用意していましたし、お昼ご飯はカップラーメンがよく出ていました。夜だけはちゃんと作ってくれていましたが、母が作るのが嫌な時は、小学生だった私と姉二人でお弁当屋さんに買いに行ったりもしていました。
中学になれば、土曜日の授業の後クラブがありますよね。
周りの皆は当たり前のようにお弁当を持ってきていましたが、うちは作ってはくれなかったので、私は前日くらいにコンビニへ行きパンを2個買ってもって行くか、冷凍食品を詰め合わせたお弁当を自分で作って持っていくか、授業が終わってクラブが始まる小一時間の間に一旦家に帰り、お昼を食べ、もう一度学校へ行くという方法でお昼を済ませていました。
家から学校までは、15分弱くらいでしょうか?往復となると約30分かかります。そうなると、家でご飯を食べる時間は30分もありません。
家に帰ってもご飯が用意されている事あったかな?その辺の記憶が全くないのですが、急いで食べてまた学校へ行くのはとても面倒ですし、自分でお弁当を作るのも朝早く起きなければいけないので大変でした。
お弁当は、前日の晩御飯のおかずを詰めるだけならまだしも、一から作らなければならないので、焼ける時は卵焼きを焼きますが、それが無理な時は全て冷凍食品のお弁当となりました。ご飯も炊いていない事があったので、冷凍ピラフを炒めて入れていました。
「お弁当を作ってほしい」とお願いした事がありますが、帰ってきた答えは、「冷凍食品買っといてあげてるやろ」でした。せめて、何品か前日の残りがあれば大変さも違っただろうに・・・と今になって思います。
これを自分と自分の子供に置き換えて想像してみる事があるのですが、私は到底真似できません。短い時間の中、頑張って走って帰ってきてまた行く事も、冷凍食品ばっかりのお弁当も、自分は子供にさせたくありません。
百歩譲って、仕事をしているお母さんなら仕方ないのかなと思いますが、母は専業主婦でした。
中学の時ですら作ってくれないのですから、高校なんてもってのほかですよね。高校からは給食がなく毎日お弁当でしたので、毎日のようにお弁当を作るか、学食があったので自分でバイトしたお金で学食で食べていました。高校の学食だったので、素うどんが130円位でありましたので、そればかり食べていました。
私は母の姉への対応を見ていたので、バイトしたお金で学食を食べていましたが、姉は学食を食べるのにお金をもらっていて、そのお金を渡す時ですら母は常に文句を言っていました。
作らないのならせめてお金は当たり前のように出してほしいです。
私が育った地域は、富裕層も多く人気のエリアだったので、当たり前のようにきちんと用意してくれる親が多かったように思います。周りも自分と同じ状況ならまだよかったのですが、そうではなかったのでそこもまた辛かったです。よく友達が、お昼が少ない事を心配してお弁当のおかずを恵んでくれる事がありました。手作りのおかずはとても美味しく、羨ましかったです。
たまに父から手伝いしろよと言われる事があり、もっとしなければいけないのか!私はまだまだやらなければ!と大人になるまで勘違いをしていました。
母は家の中はキレイにしていたので、一見きちんとして見えていて毒親には見えなかったと思います。そして外面はいいので、皆真に受けたのだと思います。父からも、祖父母からも、伯母からも、近所のおばちゃんにもお母さんを助けてやれ、と言われた事があります。今なら百倍に母の悪行をバラす事ができますが、当時私たちは、一般的な家庭というものがどういうものなのか分からなかったので、親へ何もできていない子供なのだと勘違いしていました。
この生活の中で救いだった事は、私には同じ境遇の姉がいたことです。
母は伯母が嫌いだったので、ただ姉という立場なだけで、姉に対して「〇〇(←伯母の名前)に似ているから嫌いだ」と言った事もありました。確かに私は小さな頃から姉より優遇されているなと感じる事が多かったので、姉の方がよりアタりが強かったのかと思います。
姉には冷たくして、私には歯向かう事をさせないよう、そんな子育てをされていました。今でこそ仲の良い私たちですが、昔は仲よくしていると母の機嫌が悪くなっている気がしていたので、仲良くしていませんでした。
姉は私とは違いめちゃくちゃ言い返す性格だったのでよく母とバトっていましたが、原因は母にある事も多かったと思います。理不尽な事を言われたから怒っているのに、母にはその内容はどうでもよく、親に口答えするからというだけで、周りの人に「姉の性格がキツくてすごい、ひどい娘、親にこんな事を言ってくると」言いふらしていました。
前後は話さず、姉に言われた事だけを伝えるので周りの人も「なんでそんな事言うの?」と姉に言ってくるので、本当に辛かったと思います。